目次
ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ共和国)VS具志堅用高
WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ(1976年10月10日)
具志堅さんの試合を初めて見たのは、鳥取県の旅館のテレビでした。
ちょうど40年前の10月10日。
この日、友人とレンタカ―を借りて鳥取へ旅行に行ってました。
とにかく道が混んでいた記憶があります。ずっと大阪から私が運転していたのですが、山道に差し掛かって、「運転をかわろ」と友人が言い出したので、交代しました。
しばらく快調に走っていたのですが、コーナーにさしかかったところで砂利道でスリップして、横転。
山の中で事故です。最悪です。
ちょうどその先でも事故があったようで、パトカーが通りかかり、横転した車を起こしてくれて、レッカーを手配してもらいました。
レッカー車で鳥取市内まで運んでもらい、とにかく旅館に落ち着きましたが、食欲もなく、何気なくテレビをつけたら、具志堅さんのタイトルマッチが放映されていました。
1976年1月に、世界ライトフライ級3位、セサール・ゴメス・キー(アメリカ)との「世界王座挑戦者決定戦」に臨み、7回KO勝ちし、世界王座挑戦のチャンスをつかんでいました。
この日、具志堅さんは、”リトル・フォアマン”の異名を持つWBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマンに挑戦。わずか9戦目でした。
一方のグスマンは、戦績21勝(15KO)1敗、うち初回KO勝ちが11度という強打の王者です。
具志堅さんのことをよく知りませんでしたが、とにかくチャンピオンがかなり強いことはわかりましたし、どうやら勝ち目はほとんどなさそうでした。
「この試合見て、それからどこかでご飯食べにいこか」
てな、軽い気持ちで見ていましたが、動きは具志堅さんの方が断然いいし、2回に早くもダウンを奪って、優勢な展開になりましたので、いつの間にかテレビにかぶりついて見ていました。
4回にもダウンを奪い、「こりゃ、具志堅、勝つで!」
すっかり事故のことも忘れて、試合に集中していました。
結局、7回KO勝ちでタイトルを獲得しました。
この後、二人で焼き肉を食べに行き、とらえず3日ほど、電車とバスを乗り継いで旅行を続けました。
(最初は翌日大阪へ帰るつもりでした。)
具志堅用高VSペドロ・フローレス(メキシコ)
WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ(1981年3月)
具志堅さんの14度目の防衛戦でした。フローレスとは前回に対戦して大苦戦の末、何とか判定まで粘り、13度目の防衛に成功しいていますが、「今度は危ない」と思っていました。
私の勝手な想像ですが、具志堅さんはほとんど減量せずに試合ができていたのではないでしょうか。それがフローレス戦あたりから、かなりウエイトが苦しくなってきたのではないかと思っています。
フローレスは具志堅さんから奪ったタイトルを、KO負けですぐに手放していますから、決して強い相手ではなかったと思います。
問題は具志堅さんの体調でしたね。
前半の動きはいいのですが、パンチが軽く、相手にほとんどダメージを与えることが出来ません。そして、後半からガクッと動きが悪くなります。
再戦でも、具志堅さんの動きは軽快で、足の運びも完璧でした。
「ひょっとしたら、今日は行けるかも」
と思っていたら、フローレスの圧力が少しずつ強くなり、逆に具志堅さん動きに精彩がなくなってきました。
8回にダウンを奪われ、12回にコーナーに崩れたころで、タオルが投入され、5年間保持したタイトルを失いました。
この時、まだ25歳でしたから、フライ級で再起するかのかな、と思っていましたが、あっさり引退してしまいました。予想以上に、激戦のダメージが蓄積していたのでしょうね。